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永照寺の歴史

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永照寺創設500年を祝う

今回の創設500年祭を迎えるにあたって、分かる範囲でその歴史を辿ってみたいと思います。というのはきちんとした古文書もなければ過去帳もありません。墓石やお曼荼羅の為書き等で、楽しくおおらかに推測することにしました。

 

創設の時代

「甲斐国志」に永照寺の創設が大永2年(1522年)と記されております。

大永年間の前は永正年間です。そうすると、開基蓮光坊日深上人はその頃から、法華経のお題目の布教につとめられ、寺号をその年号からいただいたんだろうなと推察いたします。古い過去帳を見ると「永照寺」という表記(現代)もあれば「榮照寺」というのもあるし「永正寺」もあります。大変おおらかな話であり何故そうなのかという疑問に対しては、楽しく推測で話すよりありません。

大永年間は山梨甲斐の国では、ちょうど武田信虎公の時代です。戦国時代の地域の豪族がくっついたり離れたりして、戦いに明け暮れた時代です。一つ間違えば焼き討ちか虐殺?そのような荒れた時代に庵を構え、法華経を読みお題目を唱え布教実践していくことは、大変な事だったんだろうなと思います。

戦国の世を生き延びるということは、いのちをかける死(破滅)を覚悟するということです。このように法華経はたとえどのような時でも、どのような場所でも、誰にでも生きる喜びと躍動感を保証する素晴らしい教えなのです。

徳川時代

​さて徳川時代になると、徳川家康の『寺請け制度』(檀家制度)等により特別の外護をうけ、細々ながら経済的にも安定するようになりました。

明治以降

徳川に代わって明治政府の宗教対応は「廃仏毀釈」に打って出ました。

日清日露の明治大正を経過して、いよいよ昭和のファッシズムを迎えました。 “大東亜”の思想の基にみんな戦争一色です。宗教も何らかの形で戦争への道を手助けしてきました。

そして昭和20年の終戦を迎えました。戦後はマッカーサーがやってきて“農地解放”をしました。その結果今までわずかではあったけど寺領からの年貢もなくなり、田んぼもなくなりました。

先代住職

先代住職はこの永照寺に昭和8年に佐渡から親子3人(長男治雄2歳)できました。たまたま永照寺は無住のお寺(住職不在)だったようです。身延山大学の前身『祖山学院』で勉強するためです。

最初は大学在学中だけのつもりだったようですが、冬の寒さが厳しい佐渡と比べ甲府は冬に布団も干せるとても快適の所のように思ったらしいです。

師匠である塚原山根本寺44世石井智行上人は、永照寺の本寺である櫛形町一之瀬の妙了寺の山主に頼んで住職させてもらいました。その時の檀家が23軒です。お寺だけでは生計が成り立ちません。母は裁縫で何とか生計を考えました。それに合わせて助産婦(お産婆さん)の国家試験を取り お産婆さんも務めました。

昭和16年 今の永照寺幼稚園の前身である永照寺保育園を開設して地域の子どもたちの保育事業を始めました。

昭和29年時の昭和天皇から“幼児教育の功”により下賜金を拝受する栄に浴しました。

昭和46年 時の時代と地域の要請により保育園を学校法人立の幼稚園に発展的に解消しました。

 

 

 

法燈継承

昭和51年 先代住職の体調が思わしくなく法燈継承住職交代しました。その後 昭和56年 日蓮大聖人700遠忌を勤めました。南の庫裏増築 墓地通路コンクリート化 歴代上人ご廟整備 本堂内仏具荘厳などです。

遠忌事業というのは日蓮大聖人に対しての報恩感謝です。だから事業の第1発目は“遠忌塔建立”だそうです。そういえば 昭和6年の650遠忌は永照寺住職が無住のため 代務住職である隣りの高源寺の住職が建ってくれました。昔の方は義理堅いというか 本当に信仰を深めていたんだなと思います。“やっぱし 遠忌塔を!”と最後になって気付き 急遽700遠忌塔を建立しました。

 

 

 

淨元の得度式   

平成3年 法嗣である淨元(当時は「元」)が 住職の喉頭腫瘍によるガラガラ声に憂いを感じ?“僕がお坊さんになります”と言ってくれました。どうせお坊さんになるんじゃあ21世紀に生きるお坊さん 世の中に貢献できるお坊さんになるようにという期待を込めて得度式を勤めました。その時記念事業として、だれでも自由に使えるお墓すなわち永代供養料のいらない共同有縁墓苑を造ることにしました。

人はそれぞれ事情があって生きています。代々ご先祖が続く家はいいんですが、お一人とか次の代がいないとか、何らかの事情があってお墓が造れないとか位牌を持ってもらえないという方がおります。そういう方にしてみると、ご自分の死後の世界はどなたが供養してくれるのか心配です。その不安を無くするために共同有縁墓苑を記念事業として建立しました。「弥勒の光明“龍華殿”」といいます。

創設500年祭を迎えて

平成25年頃創設500年祭の話がちょこっと出ました。というのは先輩のお上人(昭和町泉応寺大坪宣海師)がその昔500年祭を勤めました。むささび会の仲間(身延武井坊小松浄慎師 元日蓮宗宗務総長)が身延の七面山敬慎院の創設700年祭を勤めました。お勤めなさったお上人方が大阿闍梨のように見えました。ご本尊様との感応道交です。

485年を過ぎたころから、自分も報恩感謝の500年祭を勤めたいという希望がわき出るようになりました。できれば“行事”という形をさらに発展させ“活動”という形にできないかと考えました。

ちょうど縁あって久しぶりに秋田のわらび座との出逢いがあり、マイトレーヤが主催して青少年のための演劇教室宮沢賢治原作の『セロ弾きのゴーシュ』を一昨年の2月の大雪の後に石田小学校の体育館で公演しました。続いて9月やはりわらび座の手塚治虫原作『ミュージカル“ブッダ”』をコラニー文化ホールで公演しました。特に手塚治虫のブッダ観というのは 大変興味があります。というのは神格化されたブッダでなく、人間ブッダを描いています。だから人間臭さがある反面宗教信仰上の神々しいところはあまりみられません。

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